随想

運命


ここ二十年以上、音声の研究者をやっていて、そのきっかけは何だったのだろうと時々考えてみる。

最初の兆候は発音記号だった。中学校で英語の授業が始まり、初歩の辞書を買って、まず興味を持ったのが英語そのものより発音記号だったと思う。綴りではわからない発音そのものを、カタカナでなくて詳細な(実はそれほど詳細ではなかったのだが)記述の方法があることを知って興味を感じたのだ。当時は、発音を学ぶには先生の発音を注意深く聴くしかなかった。実は、もう一つは、NHKラジオでやっていた基礎英語だった。これはほぼ毎日聴いた覚えがある。

裕福な家ならリンガフォンのような語学レコードを買うこともできただろう。しかし、中学1年生の時点では、私の家にはレコードプレイヤーすらなかった。いずれにしても、じっくりと自習するには発音記号を読みこなすほかに手段がなかった。発音記号には暗号を読み解くような興奮があって、それ以後も、多分今に至るまでずっと憧れに似た気持を抑えることができない。基本的に、そういう性格なのだろう。音楽に関しても、若いころは、聴くより楽譜を見る方が好きだった。

中学校の国語の時間に文法を習った時には興奮した。普段普通に喋っている言葉には、その背後に規則と理論がある。やはり、根っからの理科系なのだと思う。理論に最も遠いと思っていた国語の時間に、そのような内容を聞くとは思っていなかったのだろう。実際には、記憶力は極めて悪い方なので、文法を覚えるのは苦手で、試験問題に出されてよい成績だった記憶はない。しかし、文法を習った年の夏休みには、教科書語(共通日本語)で習ったと同様に、関西弁にも文法は存在するのだろうか、と考えた覚えがある。「へん」は否定の助動詞だろうか。ならば、その前につく動詞の活用形は何だろうか(実は、地域によって違うようだ)。「はる」は尊敬の助動詞だろう。連用形に接続するようだ。「買うてきた」の「こう」は連用形らしい、とすると学校で習った連用形にもう一つの形を付け足さなければならない、とか考えていた。しかし、文法は面白いという私の意見は同級生の支持を得られず、変人扱いされてしまった。(実は、ここにも日本の国語教育の悪い面がある。)

高校の時に、ミュージカル映画という新しいジャンルの映画が大変な人気を得た。私の家では、映画を見に行くことなどほとんどなかったし、行くとしても一家4人だったし、それも小学校5年生のときにテレビを買うまでのことだった。「マイ・フェア・レディ」という映画が同級生の間でも評判になって、私も初めて独りで映画を見に行った。真面目な高校生だったから、当時の校則に則って、坊主頭、制服制帽で三ノ宮の繁華街を通って映画館に入るのは、犯罪を侵しているように感じたものだ。

何もかも「うぶ」で「おくて(晩生)」だったのだと思う。質素な家庭で、真面目に育って、少しでも不良じみた行為には決して近付かない生活だった。大人の真似をしたり、不健康な冒険をして見たいとも思わなかった。そんな時に、この映画は、私に強い印象を残した。テレビ以外で外国映画を見るのも初めてだったかも知れない。オードリー・ヘップバーンの美しさに打ちのめされたのはうぶな高校生としては当然としても、音楽に酔い痴れた。それまで聞いたことのなかった見事な転調とオーケストレーション。いまから考えると、かなり古いタイプのミュージカルで、クラシック音楽に通じるところが多かった。そして一週間後、二回目を見に行った。親がよく許してくれたものだ、と思いながら。(そこまでうぶだったのだ。)

見事な転調とメロディ。今のように小さい録音機材があるわけでなし、なんとか記憶したいと思って五線紙を持って行ったが、僅かしか書き留められなかった。後にレコードを借りることができて、それで曲の解明はできるようになるのだが、しばらくは華麗な音楽に眩惑された日々だった。

あとで知ったことだが、映画の主人公の一人、ヒギンズ教授には実在の音声学者のモデルがいるそうだ。音声学は、イギリスのインド支配に伴って起こった学問だから、歴史的背景としてはもっともらしい。映画の中で、ヒギンズ教授がインド帰りの友人のピッカーリング大佐に、蝋盤のレコードで発音記号の説明をして見せる場面がある。ここに、中学校以来魅せられて来た発音記号の数々が登場するのだ。発音記号は、美しいオードリー・ヘップバーンとともに、ますます私の憧れの対象となって行った。同時に、英語の発音記号だけでなく、もっと魅惑に満ちた記号があるのを知った。

高校は、全国優勝を目指して合唱の練習の毎日だった。1年生の時はモンテヴェルディのミサの一部、2年生のときはモーツァルトの初期のモテットだったが、どちらもラテン語の歌詞の曲だった。そんなわけで、ラテン語は、私にとっては英語についで接した2番目の他言語である。ラテン語の発音の解説の本が合唱部で買ってあって、私はそれを熱心に読んだ。その本は大変よい本で、単にラテン語の読み方を説明だけでなく、死語となったラテン語は、歌う国によってさまざまな発音で(つまり、なまって)発音されているのだということ、例えば /r/ はイタリア語、ドイツ語、フランス語、英語、ロシア語などで発音が異なり、事情を考えて選ぶ(基本的にはローマカトリック方式、つまりイタリア語なまりで)とよい、などと書かれていた。これには大変興味を持った。

大学に入学してすぐ、講義に関係なく自発的に最初に買った専門書は「音声学」という岩波全書シリーズの小さな本だった。こんな本が、なぜ、ほとんど教養課程の学生しかいない町の小さな書店にぽつんと置いてあったのかはいまもって不思議だ。この本は最初の本格的な日本の音声学の本で、いまなお名著とされていることを知ったのはだいぶ後のことである。とにかく、服部四郎著「音声学」350円は、当時の私にとっては(高くはないにしても)安い買物ではなかった。

買ってみてがっかりした。そして、私が興味を持っていたのは、音声学という学問の理論ではなくて、発音記号だけだったのだと気づいた。欲しかったのは、発音記号とその発音の仕方を教えるようないわば「発音記号辞典」だったのだ。音声学という学問分野で何が問題でどんな思想で研究されているのか、そんなことはどうでも良かった。あの怪しい雰囲気に満ちた悪魔的な呪文の文様のような発音記号の魅力に取り付かれていたのだ。最近見付けた高校生や大学生初期の日記を見直してみると、全部発音記号で書いてある日もところどころある。子供っぽいと言えばそれだけだが、まあ、それだけかもしれない。

教養課程では、いろいろな言語に手を出した。第二外国語のドイツ語に加えて、フランス語、ロシア語、スェーデン語。中国語は初回だけ出席した。記憶力の悪さのためもあって、どれも言語としてはものにならなかった。もともと私の興味は、言語特有の音素とその発音だったのだ。

専門に進んで、音声に関連した講義は自学科も他学科へも受けに行った。そうして、コンピュータで音声認識をやって見たいと思うようになった。「音声科学」という厚い本も買った。但し、当時は大型計算機の時代で、具体的に何ができるかわかっていなかった。実は、この学科から音声の研究者が多く出ているのだが、それは後のことである。

大学院では、音響・信号処理の研究室に進んだ。学科の中では他に音声情報処理関連をやっている研究室はなかったのだ。研究室の先輩に音声を研究している人が2人がいて、私はその人たちのいる会社に就職し、希望通り同じ研究室の配属になった。その研究室の室長をはじめ、「音声科学」や論文で見た有名な名前が、同じ研究室で実際に人間として存在しているのには、興奮を通り越して感動だった。やはり「うぶ」だったのだ、と今では思う。ともあれ、素朴な衝動に始まり、別段、特に強い意志を通して来たわけでもないのに、世界的な名声の研究室で音声研究ができ、その知識をいま大学で教えているのは、運命としか思えない。
(29 July 2001)