随想

科学と宗教


私の宗教は何かと尋ねられれば、一応、仏教だと答える。しかし、本当は私の宗教は科学だと思っている。

まず、宗教と科学に本質的な違いがあるだろうか。

例えば、中世のヨーロッパでは、キリスト教はその当時の世界の大多数の疑問に対して最も説得力のある説明をする論理であった。病気や天災もその観点から説明ができていた。とにかく、当時の人間の観察力と技術力をもって知り得ることとその結果生まれる疑問に、もっとも多く答えていたのだ。現代とは人間の疑問の方向が異なるし、疑問への答え方も異なっていたが、根本は人間の最上の知能から生まれる疑問に完全無欠な説明を提供しようとしていたことは同じである。疑わずに信ずれば救われる、というのさえ説得力のある論理であった。

このように考えると、現代の科学と中世の宗教の間に何の違いがあるだろう。中世では科学と対比した宗教という概念すらなく、全ての真理であっただろう。その後、世界が広がって他の宗教の存在を認めると共に宗教が相対化され、さらに科学が出現してからはさらに宗教と言うカテゴリ名が与えられたに過ぎないのではないか。

人々の思考の方法論を与えると言う点で、中世の高度なキリスト教教育と、現代の科学教育は同じものかも知れない。科学が宗教より優れているというのは思い上がりだろうし、逆も真だろう。要は、本人が何を信じるかということだろう。

中世を理解するには、現代の科学をそっくりキリスト教に置き換えるのが良いのではないかと思う。学校(当時は修道院)で当時の科学、すなわち宗教の十分な教育を受け、常に正しい思考ができるように知性を鍛え上げ、その応用として実世界の問題に対処したのだろう。現代の社会科学、人文科学、自然科学などの科学的な思想と、実はあまり違わなかったのではないだろうかという気がしてくる。別の言い方をすれば、古く科学の役割をしていたものをいまは宗教と呼ぶのだ、とも理解できる。

一方、科学は、人類の歴史で本当に初めての世界宗教と言えるのではないだろうか。ほぼどの既存宗教とも共存でき、最も進んだ文明を生み出す論理を提供し、民族や歴史に縛られない価値観を共有することができた。しかし、扱っている主題は宗教とは少し別のところで成功したものの、人間の心の問題には心理学や精神医学などに限られており、既存の宗教ほどに成功していないと言えるかも知れない。

中世の人達は、現代人の科学の目で歴史分類され、当時絶対と信じていたものが、いまは「宗教」というカテゴリで分類されることになるとは思わなかっただろう。こう考えてみると、今から1000年後には、現代を振り返って、現代の科学は近代に発生した宗教の一つに過ぎない、と説明されているかも知れない。では、その時代の科学の地位を占めるものは何だろうか。私があと1000年生きて見たい気がする最大の理由はここにある。
(29 Nov 2001)