随想

思ひて学ばざれば ...


高校の漢文は、大して面白いものではなかったが、論語の一節にどきりとする言葉があった。子曰く、「学びて思わざればすなわちくらく、思いて学ばざればすなわちあやうし」(子曰、学而不思則罔、思而不学則殆)。

漢字の持つ本来の微妙な意味は分かっていないで、訓読のみからの理解なので、多分に誤解があるかも知れないが、とにかく「学んだことを自からよく考えて本質を理解しなければ、その知識は役に立たないし、逆に、自分でいろいろ考えるだけで広い知識を勉強しなければ正しいことができるかどうか心もとない。」という意味だとしよう。 前半については、うんうんその通りだ、と賛成したくなる。日本人が陥りやすい点だ。しかし、恐いのはその後半の方だ。

私の高校は公立高校ながら典型的な受験校だった。数学や物理などは前倒しして2年生までに終え、3年生はもっぱら受験のためのトレーニングだったと思う。これは、当時はどこでも大抵そうだったのではないだろうか。数学の教科書自体、二年生用は分厚くて内容も多く、三年生用の内容は代数関数以外の微積分と統計学くらいで薄かったような印象がある。 在学生のための予備校や塾などあまりない時代で (とはいうものの、実は同級生の半分近くは何らかの塾のようなところに行っていたらしい)、せいぜいZ会だのというような通信教育や、ラジオ講座以外は、学校の授業と宿題が頼りになった時代だった。本来は受験のライバル同士のはずだが、同級生同士和気相々としていて、皆よく勉強し、数学の問題などはパズル解き競争のように楽しんだものだ。(実は全員が楽しんでいたわけではなさそうだ、と今になって思う。)

とにかく異常な盛り上がりを見せたクラスで、同級生のほとんどは国立大学に進んだ。50人くらいのクラスだったが、東大に四人、京大、阪大、神戸大にそれぞれ十数人から二十人ほど行った。阪大に1番で入った女子同級生もいた。神戸という場所から、一番人気があったのは京大で、東大へ行くのはちょっと外れ者だったかも知れない。先生も京大出身が多かった。意志が強くなく、のんびりのほほんとした性格の私は、そんなクラスにいたおかげで進学できたのかも知れない。とにかく、皆猛者だった。

受験の準備がほぼ一通り済んだころ、物理の教科書に何気なく書いていることや公式に疑問を持った。どうしてそうなるのだろう、と思った。例えば、電磁気ならば、ビオ・サバールの法則が参考書に書いてある。これを使って、あとは積分や三角関数の知識を動員すればソレノイドの磁界の公式が導ける。やって見て、教科書には公式だけしか載せていない理由が分かった。導出まで載せると、数学の説明でページ数が増えて大変なのだ。 これをやり始めると面白くて、片っ端から証明を始めて、気がつく限り物理の教科書に載っていた全部の公式の導出を終えた。

この作業の圧巻は、ニュートンの万有引力の法則の導出だ。3つの項目からなるケプラーの法則というものがある。一見すると奇妙な法則だが、ケプラーがティコ・ブラーヘの惑星観測データを整理して得られたと言う説明である。これとニュートンの万有引力の法則との間に何か関係があるのかどうか知りたかった。万有引力の法則には惑星運動も従うはずであるし、2つの法則の間には関係がありそうなのに、そのことは書いていなかった。

微積分と極座標系の知識を使って、確か冬休み中の3日くらい、こたつに入りながら没頭して、両者は数学的に等価であることを証明した。同時に、なぜニュートンが微分法を発明したのか、なぜ必要だったのか、よく理解できた。ニュートンの万有引力の法則は「発見」したのではなく、ケプラーの法則から導いたのだ。もちろん、科学史の観点では遠隔作用などの力学思想の方が重要なわけだが、それは後に知ったことだ。 それにしても、ケプラーはどうやって必要十分な、過不足のない3法則を見出したのだろう。まるでニュートンの万有引力を知っていて、それから導いたかのようだ。

最後の難問は、惑星など2つの球体間の引力は、それぞれ同じ質量の質点に置き換えてもよい、という何気ない一行だった。そんなはずがあるか、と思った。万有引力は物体間の距離の2乗に反比例する。質点ではなく、質量が分布する地球と月のような球体が、その中心だけで置き換えられるとは信じられなかった。ともかく証明できるかやって見ることにした。高校生の知識だけでこの問題を解くのは大変である。地球を月からの距離ごとに薄い玉葱の皮のような薄片に分解し、その重力を求め、その重力ベクトルを月からの距離で積分して行った。そうすると、確かに教科書に書いていることは正しいのである。地球が層状に異なる密度の物質が堆積してできていてもこれは成り立つ。例外は、地面に井戸を掘ってその中に入った時だ。この場合は、中心からの距離に比例した重力を受ける。こうして、受験直前の時期を、物理と数学で楽しんだ。いま思うと、国語と英語の勉強からの逃避だったのかも知れない。

大学に入って、この問題が物理に登場した。あっけなく解いてあった。ポテンシャルという概念を使うのだ。新しい概念を入れれば、簡単に解ける。エネルギーにしろポテンシャルにしろエントロピーにしろ、新しい物理概念を入れれば、全く新しい見方ができて、複雑な問題が簡単に解ける。それが概念というものの効用なのだ。

私はがっかりしてしまった。かなり面倒な計算を駆使して証明し、それが標準的な解だと思っていたのだ。何だかアンフェアだ、という気もした。しかし、これは高校生の自分が知らなかっただけのことだ。 教育という面では、これはいい体験になったし、受験勉強の合間の良いリクリエーションになったが、一般に仕事の仕方としては、最上の方法とは言えない。 自分で考えることも大事だが、場合によっては学ぶこと、調べることも重要なのだ。

しかし、それが苦手なのだ。この傾向はいまもなお私に残っている。一つ勉強したら、十の応用に頭が行ってしまうのだ、他の人が二つ目を勉強している間に。その結果として勉強不足がどんどん蓄積される。 自分の知識を総動員して徹底的に考えるのは、研究者として必要なことではあるが、勉強不足はその考えの進路を危うくする。

論語の一節は、いまも私に一生分の請求書を突き付けるような恐ろしさをもって響いて来る。しかも、その借金はまだ増え続けるのだ。
(29 July 2001)