随想

放物線


少年時代は天才で、二十歳過ぎればただの人、という表現がある。これは誰にでも当てはまりそうだ。自分の子供を見ていると、大人の発想では考えられない子供の閃きがあるようだ。これを見て、天才の閃きのように見えるのも無理はない。固まってしまった大人の発想と違うだけだと言えばそれだけだが、子供時代にしか持ち得ない優れた学習能力一つ取っても、本当の大人の天才よりも遥かに優れている。皆、そんな時期を通って大人になるわけだ。

中学校の頃、私は、単に「うぶ」で「おくて」で真面目な子供に過ぎなかったから、そんな閃きを見せたのはむしろ友達たちだったように思う。大人顔負けの絵を描いたり詩を作ったりした同級生、将来は牧師になるのだ、と言って(その通りになったのだが)、ルターの宗教論争の著作を読む会を催したりする同級生もいた。旺文社主催の模擬試験で全国1位になった人もいた。みんな今はどうしているだろう。

そんなことを回想していて、私が思い出すことの一つは、放物線にまつわる想い出である。中学校2年生位で、数学の授業で2次曲線を学んで、放物線は名前の通り物を空中に投げて描く軌跡なのだと知った。直線と円を除いて、初めて知った解析的な曲線である。美しかった。

体育か何かで、ボールは45度の仰角方向に投げるともっとも遠くまで飛ぶ、と聞いた。本当だろうか。それが確かめられないかと思った。二次関数のx切片は二次方程式で求まることも、二次関数の接線は重根条件から求まることも、二次関数の最大値の求め方も習っていた。中学2年の数学の知識でも総動員すれば証明できる。正月休みに2、3日かけて考えたように思うが、証明できた時は楽しかった。秘かな自分だけの楽しみだったが、これには味をしめた。

3年生の理科で、凹面鏡は本当は球面ではなく放物面鏡でないと焦点を結ばないのだ、ということが一行書いてあって、びっくりした。そんなことがあるだろうか。これも確かめたくなった。やはり放物線への直線の接線条件、直線の直交条件、直線に対する対称関係など、そのときまで習った数学を総動員すれば決着がつけられそうに思われた。果たして、その通りであった。確か夏休みの2、3日を掛けて解いたと思う。夏休みが終わって、数学の先生が見て(自分から見せに行った覚えはないのだけど)、ずいぶん感激し、学校の会誌に載せたいとまで言ってくれた (結局載らなかったが)。私は先生の反応に戸惑ったが、こういう遊びは悪くないのだと知った。(こんな余計なことをしていないで勉強しろ、と言われるかとビクビクしていたのだ。)

そのときの自分の興味、証明したい衝動、習った知識をある目的のために総動員する快感、それが今の自分を形成しているのだと思う。悲しいのは、その衝動は歳とともに減って行き、いまは本当にただの人になったことだ。
(29 July 2001)