随想 |
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どきっとした話子供が言語を習得する過程は興味深いものだ。成人から見れば、却って目から鱗が落ちるような瞬間も多々ある。逆に、言語というものの不合理や非論理性を痛感させられる時でもある。 ある人から聞いた話だが、自分の子供がまだ赤ん坊の頃、いろいろな物を指さして「とけい」と言う。一体どうしたことかと考えてみると、それらはすべて丸い。そういえば、最近、壁に掛かっている時計のことを「とけい」というのだと教えたばかりだ。 つまり、丸いもののことを「とけい」というらしい、と子供心に思ったらしい。 他の物の名前はまだ教わっていないわけだから、これは、確かに極めて論理的な理解だ。 ありとあらゆる事物は子供の目や耳にパターンとして入力される。そのようなパターン空間を考え、それらが類似性を反映して空間配置されているとすると、赤ん坊が単語を覚えて行くのは、このパターン空間を分割してそれらの部分空間にラベルを貼って行くことであるという気がする。 最初に覚えた単語が「パパ」と「ママ」であるとすれば、パパとは大きい人、ママとは小さい人(あるいはその逆)、と理解しても多分に論理的だ。あるいは、着目する属性が衣服の色だったら、パパとは黒っぽい服の人、ママとは明るい服の人と(あるいはその逆)と理解するかも知れない。 これらの段階を、言語の未発達段階と言って済ませているだけでよいのか気になる。大人から見て、素朴で真直な論理性に教わることが多いのではないか。 私の娘が四、五歳だったある日の夜、妻が、 「パパ、もう帰って来るかな?」 と娘に話し掛けた。娘が答えて曰く、 「もう帰って来ないんじゃないの?」 妻は一瞬どきっとした後、 「そういう時は、『まだ帰って来ない』っていうのよ。」
と教えたそうだが、こんな怖い想像を娘の口から聞くなんて、とひとしきり考え込んだそうだ。
(12 Nov 2001) |