随想

否定表現


日本人は否定が好きな民族なのではないだろうか。

言語表現について考えても、日本語には否定的な表現が多い。2重否定は日常茶飯事、3重否定もべつに驚く程でない。なんと、7重否定も可能だ。たとえば、
  • 3重否定: やらざるを得ないんじゃないのかなあ。
  • 4重否定: 必ずしも行かなくちゃいけないってこともないじゃないですか。 [ 最近はやりの「じゃないですか」言葉 ]
  • 5重否定:(こんなに仕事が遅れていると言うことは、) 彼にはやる気がないんじゃないかって思わざるを得ないじゃありませんか。
  • 7重否定:彼の態度を見ていると、この事業は絶対成功させなくてはならないことが分かってないんじゃないかって考えざるを得ないじゃありませか。
7重否定ともなると、肯定と否定が7回もひっくり返る論理を論理的に追うことなど普通ならほぼ不可能と言ってよいだろう。もし英語で上の内容の逐語訳を聞かされたら、まず理解できないだろう。しかし、日本語の場合は不思議なことに、実際に対話の中で出て来たら特に気に止めないで相手の言う意味を理解する。こんな言語を持っている民族は他にいないのではないだろうか。(ほら、ここにも2重否定。)

どうしてこんなに否定の論理を使うのだろう。というわけで、日本人の思考法の中では否定が好きなのだ、という仮説が生まれる。

余談だが、日本人は協調性を大事にしすぎて、「No」と言えない民族と言われる。だから「No と言える日本人」という本が売れたのだ。そのことは本当だろう。民族性とか国民性とかのような、他民族との比較の上で見出される特性は、確かに存在する。問題は、それを単純な言葉では表現できないことだ。 単純な論理で言えば、否定が好きな日本人は、普段「No」とばかり言っているはずである。 これが表層的な論理の罠で、よくばかばかしい挙げ足取りの攻撃法として見られるものだ。 とにかく、ある一面では否定ができない民族のように言われ、それは一面で確かに正しいにも拘らず、不思議なことに否定の論理が大変好きなようなのである。

こんなに否定が好きな我々日本人は、論理の道筋の立て方の中でも否定に次ぐ否定をやりがちだ。学生に論文を書かせると、何何である。しかし、何何である。それにも拘らず、何何である。... となりやすい。特に自分の研究が新しく、従来の研究の課題を解決したものである、と主張したい場合は、どこかに否定の論理が入るのはやむを得ないかもしれない。

しかし、読む側の理解の筋道では、一生懸命読んで、やっと理解したと思ったら、次の文でそれが否定してあって ... ということが続くと、論文の意図を理解するのに苦労する。

さらに、研究論文を否定論理から始めるのは、あまりうまい論理とは思えない。よくある書き方として、導入部で過去の研究を系統立てて説明し、「しかし、〜についてはまだ研究されていない。」という否定から、「だからこの論文で論じるのだ」と言うような論理を展開している論文をよく見掛ける。しかし、こういう論法は、誰もやっていなかったからやるのだ、という隙間狙いの論理でしかない。もっと積極的に、「〜の研究には、こんないいところがある。〜の研究にも、別ないいところがある。だから、この論文でさらにその先に進むのだ。」という論理の方がよいだろう。

このような否定論理が日本人の発想法の根源になっているように思われてならない。たとえば、「責任者」という言葉からは、「いまうまく行っている間に、さらに良くする指導者」というニュアンスより「事件が起こったとき何か問題はなかったかと追求される立場」のほうが頭に浮かぶ。

新しいことをしようとすると、その利点よりも、その欠点や問題点を指摘する面で天才的な閃きを持つ人が多い。そんなに悲観的に考えないで楽観的に希望を持ってとにかく前進しようよ、と言いたくなるのだが、そういうわけにいかないらしい。欠点があるなら、それを皆で改善してよりよいプランを作ろうよ、という考えが、なかなか当り前にならない。

とにかく、例を挙げればきりがない、負の論理に長けた民族は、そのために、科学技術の分野で、他の言語の民族に比べてどんな遅れを取ってきただろうか。そんな研究があれば是非知りたい。
(July 2001)