随想

化学少年の日々

小学校の高学年から中学校にかけて、私を捉えていたものは化学だった。

化学実験は、当時の小学生に取っては、本当に魅力的なイベントだ。小学校2年生のときに、シャボン玉を作るという、私にとっては最初の「理科の実験」があったことがいまだに忘れられないところからも、実験大好き人間だったのだろうと思う。年にせいぜい数回、クラス全員が理科室に移って行なう理科の実験には、大変興奮したものだ。急成長しつつあった日本で、少し裕福な家庭では「子供の科学」という雑誌が子供に買い与えられ、自然科学の面白さにわくわくしながら学んだものだ。今のようにゲームも高度な玩具もない時代、科学ほど面白いものはない。そんな少年は一杯いたのだ。

確か4年生くらいで、石灰水に息を吹き込むと白濁するという実験があった。さらに息を吹き込み続けるとまた透明になる。化学変化の不思議に魅せられたのはこれが最初だったと思う。 自分でも近所の薬屋で生石灰(酸化カルシウム)を買ってきて、それに水を加えて消石灰(水酸化カルシウム)にして、石灰水を作っては実験を繰り返していた。水酸化カルシウムは二酸化炭素を吸って、水に溶けにくい炭酸カルシウムに変化して白濁し、さらに二酸化炭素を与えると炭酸水素カルシウムに変化してまた水に溶ける。鍾乳洞の原理だが、小学校高学年程度でどれだけ理解していたかは怪しい。しかし、それなりに本や、「実験観察図鑑」という宝物のように大切にしていた本でいろいろと勉強していた。

何のために生石灰を薬屋で売っていたのだろう。当時のことを考えると、多分乾燥剤だったのだろう。シリカゲルなどが普及するかなり前のことだ。海苔などに必要な乾燥剤は、当時は皆生石灰の入った紙袋だった。生石灰は、水を吸って消石灰になる。そのときにかなりの熱が出る。倉庫に置いた生石灰に雨漏りした水が垂れて火事を起きたという報道が時々あった。私も、アルマイトのコップに生石灰を入れて、少し水をいれると発熱してシューシュー音を立てながら白い塊が崩れて行く。面白くてしようがなかった。(近所にいた江夏豊くんが遊びに来ても、私が手放そうとしなかったコップはそれだった)。

そのうちに、膨らし粉(重曹)を買ってきては、酢を薄めて掛ける。炭酸ガスの泡が出るのだが、サイダーのように見えて得意だった。味はサイダーやラムネの味には及ばないなとは思いながら、作って飲んでみたりした。まだ今のように100%天然ジュースなど思いもよらない時代だ。ジュースとは色水のことであり、泡が出る粉末ジュースは子供たちの人気だった。

父は、立場上、理科の実験の指導書や参考書をたくさん持っていたし、アイディア豊富な人で、面白い理科の実験器具を作って特許や実用新案を取ったり、製品化していた。だから、父の化学の本を盗み読みしたのは、当然の成行きだ。父が気づいていたかどうか、素朴な子供だった私には分からない。今想像すれば、父は喜んで黙認していた可能性が高い。

山の上の小さな中学校に通うようになって早速始めたことは、「科学部」と称するクラブに入っての実験三昧だった。化学そのものはもちろん真面目な分野であるはずだが、中学1年生としての科学への興味は、色が変わったり、色のついた煙が出たり、火花が散ったり、匂いがしたり、という面白い化学反応でしかない。理科の先生が付き添って指導するというような体制はなかった。そんな管理体制以前の伸び伸びした時代だったのか、単に理科の先生が暢気だったのか、その辺はいまもって謎である。とにかく、一日の授業が終わったら職員室に飛んで行って、理科の先生の机の引出しを開けて、理科室の鍵を勝手に持ち出す。そして、5時の刻限まで化学実験を楽しむのだ。

入学してまだ1〜2ヵ月のころ、クラブの3年生の先輩を誘って最初に始めたのは、テルミットの実験だった。父の持っていた高校のための化学の指導書に書いてあったのだ。シュミット法ともいい、レールの溶接などに使うという話が書いていあった。理科室のトレンチを開けて厚い銅板を敷き、その中で材料を混ぜ、マグネシウムリボンで火をつけた。真っ赤に融けた鉄が流れる実験は、化学に夢中の中学校3年間の幕開けだった。酸化剤を強力にすればもっと激しい反応がある。ほとんど爆薬を作るにも似た、危険な興奮の毎日だった。

何年か前に爆発物を作って指を飛ばした生徒がいたから気をつけろ、と先生には言われたが、禁止はされなかった。まだ学校の管理責任などと言わずに、もし子供に事故があれば不運と思っていた素朴な時代だったのだろう。悪臭のガスを発生させる、液体の色反応を試す、煙幕を作る、色のついた煙を出す、音を立てて破裂する物質を作る、火薬を作る、とにかく化学の実験書に書いてある見た目に面白そうな反応はことごとくやってみた。

とにかく本に書いてある不思議な反応が、やってみると眼前で実際に起こる。こんな興奮に満ちた体験はない。原理が分かれば、さらにいろいろなバリエーションが考えられ、結果が予想でき、実験で確かめられる。たとえば、そういう中で金属のイオン化傾向は1年生のうちから実験を通してすっかり身についていた。今から考えれば、精神的にはすでに研究者だったのだ。いまは、その中学生が歳を取ってくたびれて大学教授をやっているに過ぎないという気がしてくる。

どうしてあんなに自由にさせて貰ったか、いまだに不思議だ。いまの自分の歳になってやっと、私の父に遠慮していたのだろうか、などという想像が頭をかすめる。しかし、それで説明はつかない。やはりまだ素朴な時代だったという他ないだろう。薬局は、いまのように売薬を売るところというより、いろいろな生活化学薬品を売っていたところだった。トイレの掃除用と言って塩酸を、洗濯用として苛性ソーダがいくらでも買えた時代だ。安全性や製造者責任などと言っている時代ではなかった。

それにしても、理科室と理科準備室の棚に、よくもあれだけ薬品が揃っていたものだと思う。中学校の授業では、あれだけの種類はまったく必要ないから、多分、大学の研究室から貰ったとかだったのだろう。硫酸、硝酸、塩酸、苛性ソーダ、硫酸銅、硫酸ニッケル、酢酸鉛、亜鉛末、アルミニウム粉末、砒素から赤燐、黄燐、綿火薬、金属ナトリウム。赤血塩、黄血塩、ハイポなどは写真用だったのだろう。まだ写真は化学の一部だったのだ。何十種類もの色素は、生物標本の色づけ用だったのだろうが、恰好のpH試験薬、ひいては色が変わる化学マジックの材料になった。ドラフトも備えた本格的な理科室だったが、先生の監督も許可もなく、中学2年生がドラフトを使って有毒ガス発生の実験をしている図は、今から考えると恐ろしくもある。

3年生頃になると、高校の参考書の中の無機化学の面白い部分はすっかり実験しつくしてしまって、有機化学へ関心が移って行った。生徒会の役員もしていた私は、科学部にやや有利な予算配分を決め、フタル酸や錫粒などを買い集めた。蛍光物質を作るためだ。しかし、夏過ぎからは高校受験体制として放課後の補習が始まり、せっかく整えた有機化学実験体制は生かし切れなかった。高校に入ったらもっと高度なことを思う存分やろう、と思いながら。

高校に入って、理科室は完全な管理体制の下にあることを知った。理科クラブはあるにしろ、生徒が思い付いた危険な実験を自由にやらせてくれるような性格のクラブではなさそうだった。いまから考えるとそれが当り前だが、当時は裏切られたように思ったものだ。さらに授業で習う化学は、化学式とモル計算だけの、何ら魅力のない内容だった。実験は、結果はあらかじめ示されていて、ただ収量を測ったりする定量化学だった。錬金術師にも似た、結果をわくわくしながら見ながら化学の魔法に浸るような定性化学の面はなかった。高校で黒板で習うことにも面白い事項はあるが、それらはあらかた中学校で自ら実験しつくしていた。高校では、化学の勉強はほとんどしなかったが、中学校での蓄積で試験成績はいつもトップに近かった。しかし、興味は失せていた。こうして、化学に夢中だった一人の少年が消えた。

その後の私は、合唱三昧の日々。全国優勝するまで、毎日、昼休みと放課後は音楽室にいた。二年生の秋に全国優勝したあとは、ピアノに関心が移った。いずれにしても、今のように情報関係を教える立場になるとは思っていなかった。

いま考えて見て、中学時代の理科室には、いくら感謝しても仕切れない。そこで私はどれだけ科学の夢を育んだことだろう。しかし、その少年の心は高校の冷徹な管理には落胆させられた。(同期の村上春樹が嫌ったのもそういう面かも知れない)。この体験から、いまの少年たちは可哀想だ、学校も可哀想だ、という気持が強い。安全第一で、自由が効かない学校。何か事故が起こると、管理責任のみ問う社会。こんな中では学校も生徒も、私を虜にした錬金術師の甘い夢は、もはや誰にも育てられないのではないか。
(July 2001)