随想

音楽取り引き


私の両親は、音楽はうるさいという以上の感想を持ち得ない人達だったから、私がレコードが欲しいと言っても、子供がおもちゃを欲しがる程度にしか思わなかったようだ。しかし、せっかくステレオを手に入れたのだから、次はレコードが欲しいのは当然の成行き。あまりに欲しがるので、両親は中学校の成績で学年1番を取ったら1枚買ってやろう、という条件を持ち出した。多分、勉強をさせる動機づけと、レコードをあきらめさせる口実を作りたかったのだろう。私は、しめた、と思った。これは私に取って有利な条件だ、ということを悟られないように、表情を隠した。それ以後は、中間試験と期末試験が待ち遠しくなった。

当時は、LPレコード1枚が2000円が相場で、多分初任給が2万円くらいだっただろう。そうだとすれば、勤め始めの若い人はLP10枚で給料を全部使ってしまう勘定だ。現代のCDとは1桁値段が違う。その上、父は当時安月給の代表といわれた公務員だった。両親の出した条件は、それなりの妥協だったのだろう。

高校で合唱部に入って、毎日が音楽漬けの日々になった。成績はあっと言う間に真中辺りまで落ちた。夏休みは、練習のない日にマークのついたカレンダーが配布された。当時の高校では珍しい合宿(といっても高校に泊り込み)もあった。2年生の時には、私も全国大会に出して貰って全国優勝を果たした。しかし、音楽に理解が無く、大学進学の方が心配な両親には、このまま合唱を続けさせてよいものか迷ったに違いない。そこで、取り引きを持ち出した。ピアノを買ってやるから、合唱はやめたらどうか、と。

またもや、私はこの条件に乗った。実は、全国優勝を目指して長期間一曲だけ徹底して仕上げる練習に飽き足りなくなっていたのだ。私の音楽の関心も、すでに広がり始めていた。それに、音楽のメカニカルな構造、和声学や対位法などに関心を持ち始め、合唱曲より器楽曲や鍵盤曲に関心が移り出していた頃である。足踏みオルガンでは満足できなくなっていたし、合唱で時間を取られてそのオルガンすら弾く暇がなく、フラストレーションが高まっていた時期でもあった。合唱部内の(別のパートの)内部対立にうんざりしていたこともあった。こうして、2年生最後の春、私は合唱部を裏切った。

裏切った、という気持はあった。浪人覚悟で卒業まで合唱に心身を捧げる、それが美しい高校生活だ、という空気はあった。仲間で団結して、コンクールのためには何もかも捨てる。大学受験を意識して途中でやめるのは卑怯者という印象があった。私の行動もそのように取られたかも知れない。(それでも一応、合唱部卒業生名簿には入れて貰っている。これは名誉なことだ。)

しかし、授業が終わったら合唱の練習に出ることなく、家に飛んで帰ってピアノを弾くことの楽しさは、全てのことに引き替えるに余りあった。両親は受験体制を願ってのことだったかも知れないが、私には楽器という、構造的でより魅力的な対象に夢中になっただけだったのだ。和音を鳴らしてうっとりして過ごした時間もあった。高校3年生の頃は、本屋にあったヒンデミットの和声学の演習の本を買って、休み時間になるとバス課題やソプラノ課題を解いた。あとで知ったことだが、周りの友達は、私が音楽大学受験をすると思ったらしい。

入試に受かって実はがっかりした。東京に行くことになって、ピアノと別れるのが一番残念だった。せっかく取り引きして得たピアノを浪人しながらもっと楽しみたいというのが本音だった。それから大学、就職と、ピアノを持てない(置けない)年月が長く続いた。そして最後にグランドピアノを持っている人と結婚した。これが私の最後の音楽取り引きだったのかも知れない。

(2010.6.15 後日談。私の研究室には音楽好きが集まり、研究テーマも音楽信号解析から自動作曲まで、信号処理理論と確率モデルを組み合わせて色々なことをやっている。高校の頃に自習した和声学が今頃大いに役立っている。どうして音楽書など一冊もない普通の本屋にヒンデミットの和声学がポツンと置かれていたのか未だに疑問だが、「天の配剤」あるいは「罠」という語を思い浮かべる。)

(2010.6.15 後日談2。高校の合唱部の先生の柳歳一先生は、上野音楽学校学生時代に隠れて流行歌手のアルバイトをして大変な人気だったらしい。http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer08.html によると「松山時夫(1910-1999)-- 山口出身。昭和7年に歌手デビュー。8年に東京音楽学校を卒業。「片瀬波」がヒット。戦後は兵庫で音楽教員のかたわら、大学や市民の合唱団を指導、武庫川女子大教授や兵庫県合唱連盟顧問を歴任。平成10年には神戸市の文化活動功労賞を受賞した。11年1月27日、気管支炎で死去。本名は柳歳一。」とある。他にも青柳静夫、渋谷時夫、島秋雄、島秋児、松山四郎、柳凉二などの変名でアルバイトをしていたそうだ(http://zarigani.web.infoseek.co.jp/siryop/siryop2.htm)。素朴な高校生の私には知る由も無かったが。)