随想

応用問題の悲哀


大学では、試験の後に感想を聞くと「僕はどうも応用問題が苦手で。」という学生が多い。「私もそうなの。」という人も多いだろう。言いたいことはわかる。微分や積分やフーリエ解析や線形システム理論などを数式で習って、演習も自習もたっぷりやっていて、数式で出されれば何とか解くことができるくらいに試験勉強もしている。しかし、数式の形でなくて、現実の問題の形で出題すると、それをどのように数式にすればよいかがわからない。せっかく勉強したのだから、解ける問題を出して欲しい、という希望というか抗議と言うか、それも伝わって来る。

しかし、実は、これはとんでもないことなのだ。学生の立場ではこう思うらしい。試験問題は「基本問題」と「応用問題」の2種類があって、熱心な勉強の結果、基本問題はかなり解けるようになった。応用問題がうまく解けないとそれだけ成績が低くなるから、解けるようにはなりたい。しかし、基本問題に比べると出題される割合は低いし、まあ、今後の課題だな。そのように思っているふしがある。

なぜとんでもないのか、というと、数式の問題だけ解けても何の役にも立たないからだ。数学者になるのならともかく、工学や物理学の立場から見ると、数学は応用するためにある。現実の問題や研究者になって直面する問題は、習ったままの形をしていない。すべて応用問題なのだ。だから、応用問題が解けなければ、何も解けないのと同じだ。基本問題が解けても解けなくても同じこと。これは大変だ、という位の意識があってもよいのではないかと思う。

だから、私は試験ではいわゆる応用問題を出すように努力している。しかし、実は、そのような問題作成は結構大変だ。どの教科書・参考書にも載っていないような問題設定を考えて、現実的にも興味深い目的があって、講義内容の表層以上の本質をよく理解している人には問題の本質が見透せて、数学の問題としては簡単にエレガントに解ける、というような問題がよいのだが、もちろんなかなかそうは簡単にいかない。

たまにそういう問題が作れると、本当に嬉しくなり、その「珠玉の作品」に自分自身うっとりする。そして、何度も「作品」を鑑賞し直して、細かな表現や数値に手を入れて、完成品に仕上げる。凡庸な作曲家が、たまにショパンのような珠玉の音楽小品を着想したときの気分はこんなものだろうか。出題して、学生から「美しい問題ですね」と褒められると有頂天になってしまう。

しかし、これだけのお気に入りの自信作ができても、学生に評価して貰えるとは限らない。問題の難易度が適切であって欲しいのは当然だが、問題の本質を変えない限り、難易度を細かく調整することはできない場合もある。ショパンの珠玉の作品を、易しく弾けるように書き換えたら、すでに同じ作品ではない。ある理論を核にした応用問題の場合はなおさらだ。

一方、学生から見れば、解ける問題は良い問題、解けない問題は悪い問題、というのも一理ある。実際、せっかくの美しい問題を提供しても、鑑賞してくれるどころか、学生からただ一言「難しかった。」という否定的な感想を聞くことになったりする。その上、音楽作品と違って、この手の問題は、一度しか使えない (一度使うと「過去問」になってしまうのだ)。せっかくの美しい問題が、その唯一のデビューの機会に誰にも理解されず (解いて貰えず)、問題の内面の美しさを誰にも知られないまま引退するとすれば、これも悲しく、切ない。

ここまで書いて、ウィーンの舞踏会に一度だけ出ることが許された本当に心の美しい可憐な乙女が、誰にも理解されないで傷心のうちに修道院に入る物語が頭に浮かぶ。あるいは、正体を告げられぬまま (告げてしまっては試験問題にならないのだ) 泡となって消えて行く人魚姫の物語が。
(27 July 2001)